「あるものが実在する」ことは、「そのものが人間認識、すなわち、経験に依存しない independent of human cognition, experience 」ことに等しいと、しばしば言われる。これは、ある認識(内容)が、我われ人間が勝手にそう思い込んだり、考えたりしているだけのものでないことを、したがって、ある認識が正しいものであること、真である true ことを意味する。
ある認識が真であって、我われが勝手にそう考えたわけではないからには、その認識を正当化する根拠が求められねばならない。そして、その根拠になりうるものは、認識が対象にするなにごとか自体をおいてほかにありえない。たとえば、判断「その花は赤い」を正当化するものは、ある花が赤く在ることをおいてほかにない。言いかえれば、判断「その花が赤い」が正しいと言われる理由は、現実に really その花が赤く在る "is" red からである。
そのようなものは、どんなひとがどのように認識したとて、変わらずにその認識を真ならしめる根拠でありつづけるはずである。言いかえれば、そのものが認識を真ならしめる根拠であることは、いかなる人間がいかに認識したところで、変わらない。このような意味において、そのものは人間認識=経験に依存しない。これが、「あるものが実在する」の「実在する」が意味することである。
この、実在するものが、人間認識=経験に依存しない independent ことについて、イギリスの哲学者で、カント研究者でもあるMarc Sacks氏は、その著『我われが見いだした世界 The world we found 』(1989)において、因果的非依存と存在論的非依存とを区別している。後学のために、軽くまとめておきたい。
Sacks氏によれば、依存/非依存は、二項以上のあいだに成立する関係である。
Dependence and independence are most naturally understood as n-place relations (where n is greater than 1) which hold between objects. 'Objects' here is taken as broadly as possible to cover any item which may function as a referent of a properly referring term. (p. 6.)
また、依存関係と非依存関係とは互いに矛盾する関係で、かつ、ある二つものが存在するとき、それらが同時に、依存関係にもなく、非依存関係にもないことはありえない。言いかえれば、あるものはべつのものに依存しているか、依存してないかのいずれかである。
Granted successful reference to x and y, it cannot be false both that x is independent of y, and that x is dependent upon y. (p. 7.)
この依存/非依存関係について、しばしば混同されがちな二つのものがある。それが、Sacks氏曰く、因果的依存/非依存関係と、存在論的依存/非依存関係である。
存在論的依存/非依存関係は、以下のように言われる。XとYとが存在して、XがYなしにも存在しうるとき、かつ、そのときにかぎって、XはYに存在論的に依存しない。反対に、XがYなしに存在しえないとき、かつそのときにかぎって、XはYに存在論的に依存する。
ついで、因果論的依存/非依存関係は、以下のように言われる。XとYとが存在して、XがYの結果生ずる come about ものでないならば、XはYに因果的に依存しない。XがYの結果生ずるものであるならば、XはYに因果的に依存する。
...x is ontologically dependent upon y iff x could not exist without y; x is ontologically indenpendent upon y iff x could exist without y. In contrast causal independence/dependence are taken as saying that x does not/does come about as a result of y. (ibid.)
因果的依存/非依存と、存在論的依存/非依存とのちがいを示す好例は、空間内に延長するものと、そのものの色である。(ibid.)
例えば、日本に存在する郵便ポストは赤い。その赤色は、どこかの工場で誰かによって、もしくは、誰かに操作された機械によって、赤く色づけられたものであって、郵便ポストによって色づけされたものではない。したがって、郵便ポストの赤さは、郵便ポストに因果的に依存していない 。しかし、その赤さは、郵便ポストが存在しなければ、存在しえない。なぜなら、郵便ポストの色は、郵便ポストなるものに付着して存在するものであるからには、郵便ポストが存在しなければ、存在しようがないからである。したがって、郵便ポストの赤さは、郵便ポストに存在論的に依存する。
郵便ポストの例は、因果的非依存と、存在論的依存との組み合わせであるが、もちろん、そうでない組み合わせも考えられる。その例は、ある石と、その石によって割られた窓ガラスである。(p. 8.)
窓ガラスが割られたことは、その石によってもたらされたわけであるから、窓ガラスが割られたことは、その石に因果的に依存する。しかし、その石が存在しなければ、窓ガラスが割られることはありえなかったか、と言えば、そうとは言えない。強風で割られたこともありえただろうし、なにかべつのものがぶつかって割られたこともありえただろうからである。したがって、窓ガラスが割られたことは、それを割った石に存在論的には依存していない。
以上の二例を通じて、因果的な依存関係は偶然的であるのにたいして、存在論的な依存関係は必然的であることを見て、因果的に必然的な依存関係があるとすれば、それは存在論的な依存関係と同じであると考えるひとがいるかもしれない。しかし、Sacks氏はこれを否定する。
たしかに、あるものがべつのものなしに生じえない could not come about ならば、後者が、前者なしには存在することもあるまい。けれども、Sacks氏曰く、そこから帰結することは、存在論的な依存関係は、因果的に必然的な依存関係にほかならないということではなく、ただ、二項間に因果的に必然的な依存関係があれば、それらが存在論的な非依存関係にある余地はないというだけである。言いかえれば、二項間に因果的に必然的な依存関係がないことは、それらが存在論的な依存関係にないことに必須な条件であるとは言えても、それらが全く同じであるとは言えない*1。
Sack氏がこの区分にこだわる理由は、たとえば、人工物 artifacts を考えるさい、それらはあきらかに人間認識なしには生じえない could not come about ものであるが、そうだからと言って、人間認識なしに存在しえない could not exist とまでは言えないからである。人工物は、人間によって制作されるや否や、それに固有な存在を獲得する。人間がそれについてどう考えようと、それについて思考することを可能にするものでありつづける。
以上が、Sack氏による因果的依存/非依存関係と、存在論的依存/非依存関係との区分である。このように区別することで、Sacks氏は「実在する is real 」、すなわち、「あるものが人間認識=経験に依存しない independent of experience 」を存在論的な非依存に見定め、その意味を明確化することを試みる。しかし、これが成功しているかどうかは、心許ない。なぜかと言えば、「依存しない」は、それがいったいどういうことかを示すポジティヴなことを一向に教えてくれないからである。(あるものについて、「バナナでない」と言ったところで、バナナでないものは無限にあるので、それがなにかは確定されない。)
冒頭に述べたように、「あるものが実在する」は、そのものが認識を真ならしめる根拠になることを意味する。我われがたんにそう考えただけでないと言いうるためには、ことがらが実際そう在るからこそ、我われはそう考えると言えなければならない。それは、そのことがらがそうある根拠を、そのことがら自体に求めることができることを意味する。ようするに、「あるものが実在する」は、「そのものが人間認識=経験に依存しない」ばかりか、かえって反対に、「人間認識=経験が、そのものに依存する」と述べることにほかならない。そして、そう述べうるためには、あることがらについて、そう認識する根拠をそのことがら自体が有すると言えなくてはならない。
このように考えれば、Sacks氏があげた、物質的基盤を有しうる人工物のみならず、そのような物質的基盤の希薄な社会制度などが実在することについても、考えていけるはずである。たとえば結婚制度は、簡単に言えば、たんなる役所仕事で、紙切れ一枚で保証されるものにすぎない。文字を解読しうる能力は人間認識を構成するが、この能力がなければ、結婚制度などとても存在しえないように見える。しかし、それならば、結婚制度は実在しないと言えるか。実在しないとなれば、結婚制度について研究する社会学者たちは、虚無について研究している、空理空論をべらべら述べていることになる。そうだと言ってもいいかもしれないが、私にはとてもそう思われない。なぜなら、結婚制度が存在する根拠は、人間認識が存在するからではなくて、性交渉と、それに付随する人間関係が存在するからである。性交渉と、それに付随する人間関係は人間認識があることによって存在しうるものではなく、人間に具わる本性に根拠を有すると、私には思われる*2。まだ未熟な考えに過ぎないが、少なくとも、こう考えることから出発したい。