eyotozmの日記

技術は死なぬために、芸術は生きるために。

因果的(非)依存 causal (in)dependence と存在論的(非)依存 ontological (in)dependence

「あるものが実在する」ことは、「そのものが人間認識、すなわち、経験に依存しない independent of human cognition, experience 」ことに等しいと、しばしば言われる。これは、ある認識(内容)が、我われ人間が勝手にそう思い込んだり、考えたりしているだけのものでないことを、したがって、ある認識が正しいものであること、真である true ことを意味する。

ある認識が真であって、我われが勝手にそう考えたわけではないからには、その認識を正当化する根拠が求められねばならない。そして、その根拠になりうるものは、認識が対象にするなにごとか自体をおいてほかにありえない。たとえば、判断「その花は赤い」を正当化するものは、ある花が赤く在ることをおいてほかにない。言いかえれば、判断「その花が赤い」が正しいと言われる理由は、現実に really その花が赤く在る "is" red からである。

そのようなものは、どんなひとがどのように認識したとて、変わらずにその認識を真ならしめる根拠でありつづけるはずである。言いかえれば、そのものが認識を真ならしめる根拠であることは、いかなる人間がいかに認識したところで、変わらない。このような意味において、そのものは人間認識=経験に依存しない。これが、「あるものが実在する」の「実在する」が意味することである。

 

この、実在するものが、人間認識=経験に依存しない independent ことについて、イギリスの哲学者で、カント研究者でもあるMarc Sacks氏は、その著『我われが見いだした世界 The world we found 』(1989)において、因果的非依存と存在論的非依存とを区別している。後学のために、軽くまとめておきたい。

 

Sacks氏によれば、依存/非依存は、二項以上のあいだに成立する関係である。

Dependence and independence are most naturally understood as n-place relations (where n is greater than 1) which hold between objects. 'Objects' here is taken as broadly as possible to cover any item which may function as a referent of a properly referring term. (p. 6.)

また、依存関係と非依存関係とは互いに矛盾する関係で、かつ、ある二つものが存在するとき、それらが同時に、依存関係にもなく、非依存関係にもないことはありえない。言いかえれば、あるものはべつのものに依存しているか、依存してないかのいずれかである。

Granted successful reference to x and y, it cannot be false both that x is independent of y, and that x is dependent upon y. (p. 7.)

 

この依存/非依存関係について、しばしば混同されがちな二つのものがある。それが、Sacks氏曰く、因果的依存/非依存関係と、存在論的依存/非依存関係である。

存在論的依存/非依存関係は、以下のように言われる。XとYとが存在して、XがYなしにも存在しうるとき、かつ、そのときにかぎって、XはYに存在論的に依存しない。反対に、XがYなしに存在しえないとき、かつそのときにかぎって、XはYに存在論的に依存する。

ついで、因果論的依存/非依存関係は、以下のように言われる。XとYとが存在して、XがYの結果生ずる come about ものでないならば、XはYに因果的に依存しない。XがYの結果生ずるものであるならば、XはYに因果的に依存する。

...x is ontologically dependent upon y iff x could not exist without y; x is ontologically indenpendent upon y iff x could exist without y. In contrast causal independence/dependence are taken as saying that x does not/does come about as a result of y. (ibid.)

 

因果的依存/非依存と、存在論的依存/非依存とのちがいを示す好例は、空間内に延長するものと、そのものの色である。(ibid.)

例えば、日本に存在する郵便ポストは赤い。その赤色は、どこかの工場で誰かによって、もしくは、誰かに操作された機械によって、赤く色づけられたものであって、郵便ポストによって色づけされたものではない。したがって、郵便ポストの赤さは、郵便ポストに因果的に依存していない 。しかし、その赤さは、郵便ポストが存在しなければ、存在しえない。なぜなら、郵便ポストの色は、郵便ポストなるものに付着して存在するものであるからには、郵便ポストが存在しなければ、存在しようがないからである。したがって、郵便ポストの赤さは、郵便ポストに存在論的に依存する。

郵便ポストの例は、因果的非依存と、存在論的依存との組み合わせであるが、もちろん、そうでない組み合わせも考えられる。その例は、ある石と、その石によって割られた窓ガラスである。(p. 8.)

窓ガラスが割られたことは、その石によってもたらされたわけであるから、窓ガラスが割られたことは、その石に因果的に依存する。しかし、その石が存在しなければ、窓ガラスが割られることはありえなかったか、と言えば、そうとは言えない。強風で割られたこともありえただろうし、なにかべつのものがぶつかって割られたこともありえただろうからである。したがって、窓ガラスが割られたことは、それを割った石に存在論的には依存していない。

以上の二例を通じて、因果的な依存関係は偶然的であるのにたいして、存在論的な依存関係は必然的であることを見て、因果的に必然的な依存関係があるとすれば、それは存在論的な依存関係と同じであると考えるひとがいるかもしれない。しかし、Sacks氏はこれを否定する。

たしかに、あるものがべつのものなしに生じえない could not come about ならば、後者が、前者なしには存在することもあるまい。けれども、Sacks氏曰く、そこから帰結することは、存在論的な依存関係は、因果的に必然的な依存関係にほかならないということではなく、ただ、二項間に因果的に必然的な依存関係があれば、それらが存在論的な非依存関係にある余地はないというだけである。言いかえれば、二項間に因果的に必然的な依存関係がないことは、それらが存在論的な依存関係にないことに必須な条件であるとは言えても、それらが全く同じであるとは言えない*1

Sack氏がこの区分にこだわる理由は、たとえば、人工物 artifacts を考えるさい、それらはあきらかに人間認識なしには生じえない could not come about ものであるが、そうだからと言って、人間認識なしに存在しえない could not exist とまでは言えないからである。人工物は、人間によって制作されるや否や、それに固有な存在を獲得する。人間がそれについてどう考えようと、それについて思考することを可能にするものでありつづける。

 

以上が、Sack氏による因果的依存/非依存関係と、存在論的依存/非依存関係との区分である。このように区別することで、Sacks氏は「実在する is real 」、すなわち、「あるものが人間認識=経験に依存しない independent of experience 」を存在論的な非依存に見定め、その意味を明確化することを試みる。しかし、これが成功しているかどうかは、心許ない。なぜかと言えば、「依存しない」は、それがいったいどういうことかを示すポジティヴなことを一向に教えてくれないからである。(あるものについて、「バナナでない」と言ったところで、バナナでないものは無限にあるので、それがなにかは確定されない。)

冒頭に述べたように、「あるものが実在する」は、そのものが認識を真ならしめる根拠になることを意味する。我われがたんにそう考えただけでないと言いうるためには、ことがらが実際そう在るからこそ、我われはそう考えると言えなければならない。それは、そのことがらがそうある根拠を、そのことがら自体に求めることができることを意味する。ようするに、「あるものが実在する」は、「そのものが人間認識=経験に依存しない」ばかりか、かえって反対に、「人間認識=経験が、そのものに依存する」と述べることにほかならない。そして、そう述べうるためには、あることがらについて、そう認識する根拠をそのことがら自体が有すると言えなくてはならない。

このように考えれば、Sacks氏があげた、物質的基盤を有しうる人工物のみならず、そのような物質的基盤の希薄な社会制度などが実在することについても、考えていけるはずである。たとえば結婚制度は、簡単に言えば、たんなる役所仕事で、紙切れ一枚で保証されるものにすぎない。文字を解読しうる能力は人間認識を構成するが、この能力がなければ、結婚制度などとても存在しえないように見える。しかし、それならば、結婚制度は実在しないと言えるか。実在しないとなれば、結婚制度について研究する社会学者たちは、虚無について研究している、空理空論をべらべら述べていることになる。そうだと言ってもいいかもしれないが、私にはとてもそう思われない。なぜなら、結婚制度が存在する根拠は、人間認識が存在するからではなくて、性交渉と、それに付随する人間関係が存在するからである。性交渉と、それに付随する人間関係は人間認識があることによって存在しうるものではなく、人間に具わる本性に根拠を有すると、私には思われる*2。まだ未熟な考えに過ぎないが、少なくとも、こう考えることから出発したい。

 

*1:じゃあ、十分な条件ってなによ、となるが、分からない

*2:したがって、実在論本質主義 essentialism にコミットしなければならないように思われる。性交渉と言えば、生物学的なことがらに、したがって、自然的なものにすべてを還元するわけかと邪推されるかもしれないが、本質主義は、創発 emergence を排除しない。非自然的なものにも本質は存在する。詳しくは、David Oderberg (2007), Real Essentialism. を参照。

雑感 231112

実在論 realism は、観念論 idealism に対比される哲学上の立場で、大まかかに言えば、言明「実在が存在する there are real things 」にコミットする立場、あるいは、それを原理としつつ、さらなる言明にコミットしたり、物事に対処したりする立場(言明「我われは実在を認識しうる」にコミットするなど)である。

実在 reality は、遡ればラテン語「もの res 」(realitas: noun/ realis: adj.)に由来する概念で、ものの「もの性」、すなわち、そのものに属する本性 nature ないし本質 essence (≒事象内容)を意味するが、そのようなものは現実存在 real existence を有するはずで、したがって、その存在を思考に依存しない independent of thought *1。思考に依存しないとは、我われ人間が発揮する思考活動に依存しないことであって、思考活動を狭義にとれば、判断を含む概念活動がその好例である。

科学を考えるとよいかもしれない。我われが実際に知覚してその存在を確かめることのできないものを、科学者たちはしばしば、現象を説明する理論に含める。直接に知覚できるものにかんして、その存在を疑うひとは普通いない。知覚されるものが確かに存在すること、それは証明せずともすでに明らか evident である。けれども、直接に知覚しえないものについて、ある現象をうまく説明してくれるというだけで、存在すると言ってしまっていいものか。あるひとは、いいと言い、あるひとはそうでないと主張する。そうでないと言うひとは、これまでの科学史を振り返って、のちに偽であると証明された仮説、理論上仮定された対象があることを引いて、それを例証するか、あるいは、そうして人間がしばしば判断を誤ることを思考活動一般に敷衍して、人間が発揮する概念能力がいかに頼りないものであるかを示しつつ、概念作用が及ぶ範囲でさえままならぬのに、それが及ばぬところで物事がどうなっているかなど、人間には知りようがない、したがって、そんなものが在るとか無いとか言うことは無意味であると、言うかもしれない*2。いずれにせよ、このときには、科学で用いられるさまざまな概念は現象を説明してくれる有用なものであるとは主張されても、実在を明らかにするものであるとまでは主張されない。

科学だと、日常から少し離れたところで議論されることが多いので、ピンとこないかもしれないけれども、デカルトRené Descartes, 1596-1650)によって、人間が人間たる所以は、身体から分離した精神であると説かれて以来、思考活動には、感覚すること、知覚すること、想像することなど、およそ人間がなしうる認知活動がすべて含まれることになった。自分はいま夢を見ていて、いまそこにあると思っているものは実は存在してないかもしれないとか、この世界は映画『マトリックス』が描いたように、その実体はまったく別物かもしれないとか。そういうSFじみた思考実験は、これに由来する。こうなると、思考活動に依存しないとは、人間が人間たる所以であるとデカルトが考えるところの精神全体に依存しないとなって、概念活動だけにとどまらない。感覚する、知覚する、想像するなど、あらゆる認知活動に依存しない、となる。

しかし、ややこしいことに、そうなると、精神とそうでないものとが対比され、あらゆるものは精神に依存するわけだから、その存在性が希薄にされる。それまで世界には、自らにその活動原理ないし本性を宿した、したがって、ほかに依存せずに、自分自身で存在しうるさまざまな実体 subject が存在すると考えられた*3のに、すべてが精神に依存するとなれば、それらから実体性は剥奪され、ただ精神にたいしてのみ存在するものになる。かくして、精神は卓越した実体、すなわち、主観 subject と呼ばれ、反対に、精神でないものが、ただ主観にたいしてのみ存在するものに対象化 objectified される。精神でないものは、デカルトにおいては物体であるから、物体に対象が重ね合わされ、さらに、物体=物質的事物は実在の顕著な例であるから、実在がさらにそこに重ね合わされる。実在論がときに、客観主義 objectivism とも唯物論 materialism とも混同されがちな理由には、このような経緯があると考えられるが、客観=対象概念は主観を前提にするので*4、それを実在論に交えると途方もなく議論がややこしくなるし、実在論唯物論のように、物質的なものだけが存在することを説くわけではない*5

込み入った事情はあれど、実在論がどういう立場かはだいたい分かってもらえたと考えて、話を進めたい。問題にしたいことは、実在論なるものをどうしてわざわざ必要としなくてはならないか、である。

第一には、反対するひとがいて、その主張が間違っていると考えるからである。反対するひとは、観念論とか、主観主義とかいった立場にあるひとである。しかし、観念論とか、主観主義でなにがいけないのか、となると、いろいろ難しい。「たとえこの世界が夢の如く儚いもので、実体に欠けたものであっても、みんなが同じ夢を見てるなら、それでいいではないか。大切なことは、物事に真実があると盲信することでなくて、なにが真実であれ、互いに連帯することではなかろうか(赤信号みんなで渡れば怖くない)。」とか、「科学が解き明かすことが真実でなくたって、それは少なくとも我われの役に立っているわけで、それ以上なにを求めるべきだろうか。検証して確かめることのできないと初めからわかっているものに対して、あれこれ議論することなど、不毛だし、むしろ、なされるべき議論を妨げるという意味で有害でさえある。」とか、そういった意見もある。無論、哲学者たちはそうした主張に潜む飛躍ないし間隙、欠陥を逐一指摘して、それを論駁するわけだが、実在論が客観主義、唯物論と混同されがちなこともあって、なんだかよく分からない。

以下は単なる雑感だが、実在論にコミットせねばならない理由があるとすれば、そうしなければ、理論と実践との乖離、言いかえれば、我われが認識する世界と、我われが生きて行為する世界との乖離(自然と自由との乖離)を避けがたく帰結するからではないかと思われる。

たしかになにも実在しないとなれば、困る。しかし、それが困る理由は、たとえば、科学と哲学とでは異なる。科学は世界を探求する。対して、哲学は世界に生きる自己をこそ探求する。科学が問題にする実在は、世界ないし世界に存在するものの実在である。対して、哲学が問題にする実在は、そこに生き、住まう自己の実在である。我われ人間は自己を直観できない。自分自身を見るために我われは鏡を利用するしかなかったり、他人から教えてもらうほかなかったりするように、我われは、世界を認識することにおいて発揮される自らの働きを反省することで、すなわち、認識される世界からの照り返しによって自己を認識するほかない。ようするに、同じ世界を認識するにしても、科学と哲学とでは目的がことなるわけだ*6

デカルトは自己を直観したつもりでいたけれども、デカルトが見出した自己は、アリストテレス以来の目的論的自然から脱却するべく任意に設定された、きわめて恣意性の高い自己であって、その結果、世界は見失われ、自己も見失われた。デカルトがそうしたように、世界に存在する物体は、数量化される側面しかもっていないと考えることは自由である。けれども、現実には、事物は数量化されえない側面も持っているわけで、そのように数量化されうる側面しか有さないもの、すなわち、物体しか存在しない世界に、我われが位置する余地などもとからありえまい。

無論それは、デカルトが考える科学からすれば、そう見なさざるをえないというだけであって、女王エリザベトとの書簡において、デカルトは、日常を生きる我われにとって、我われが世界に生きることは自明であるとも述べている。すなわち、科学にあって、精神は身体から分離され、したがって、物体世界に属さない*7と見なさなければならないけれども、日常にあって、我われがそのように考えねばならぬ道理はない、そこで我われは心身合一をたしかに生きると、デカルトは述べる。

心身分離と心身合一をともに説くデカルトは、いかにも矛盾しているように見えるが、これは矛盾ではない。それはそれ、あれはあれと切り分ければ問題ない、少なくともデカルトはそう考える。それらはいずれも物事を進めるうえで始原に置かれる原理であって、科学的思考にあって我われは心身分離にコミットし、日常的思考にあって我われは心身合一にコミットすればいいというわけである。これは要するに、理論と実践とを分けて考えよ、と言うことであって、さらに言えば、我われがどう生きるかは科学を束縛しないし、科学もまた我われがどう生きるかを束縛しないということでもある。言うまでもなくこれはのちに、カント(Immanuel Kant, 1724-1804)に引き継がれ、事実と価値との分離、科学と倫理との分離…、などにおいて現代にまで続く*8

哲学において、なにごとかを認識することは、知識を獲得することによりも、知恵 wisdom/sophia を獲得することに関係する。我われがいかに生きるべきかを認識する認識(哲学)は無論、我われが生きる世界はいかなるありかたをしているかを認識する認識(科学)と、歩みを共にせねばならない。実在論への疑いは、両者のすれ違いから生まれたものであって、この結びつきを回復しなければ、統一した世界像を獲得することは望めない。相対主義 relativism 、主意主義 voluntarism など、現代に見られるさまざまな立場は、究極には、ここに由来するように見える。なにが言いたいか、分からなくなってきたが、疲れたので、続きはまた今度。

*1:無論、事象内容も事象 res に属するかぎり、思考に依存しないはずだが、カントのように経験論と超越論とを分ける立場からすれば、結局思考に依存するので、ややこしい。

*2:現代において、実在論にコミットしないひとたちの多くはおそらく、こういった立場にコミットする。すなわち、存在論なしでもべつに支障なし、という立場である。たとえば、アメリカの哲学者グッドマン(Nelson Goodman, 1906-1998)はそうである。俗に言う「存在論的コミットメント」も、古来言われるいわゆる存在論というより、ある理論がいかなる存在者の存在を前提にするかであって、むしろ対象論と言ったほうがわかりやすい。理論なしに、その対象があるかどうかは問題にされない。それを問うとき、我われは無意味なことをしていると、たとえば、カルナップ(Rudolf Carnup 1891-1970)なら言うはずである。

*3:ほかに依存して存在するものは、例えば、色である。赤色の赤さは、それ自体では存在しない。色は常に、それ自体で存在する、なにかしらのもの=実体の色である。絵具の赤も、赤さそれ自体ではなくて、画材が有する赤さである。

*4:主観と客観/対象とは、相関概念である。

*5:唯物論に似たものに、物理主義 physicalism があるけれども、同じだと見なすひともあれば、違うと見なすひともある。

*6:いわゆる自然主義者たちは、哲学が古来抱えるこの目的を知らないように見える。結果、彼らにとって哲学はメタ科学になる。そしてそこから得られた結論を一般化すれば、形而上学になる。しかし、根本的なところがズレているように見える。

*7:したがって、逆に言えば、科学は世界の数量化されうる側面だけを追求するべきであると、言われる。

*8:そして、カントの超越論的観念論=経験論的実在論はかなり手ごわい。たんなる観念論とはちがって、実在を否定する立場に立たない。先の注で書いたように、むしろ、現代で言えば、グッドマンなどのように、超越論的な実在にはタッチしない、という立場である。そんなの考えなくたって、科学はできるし、哲学もできるじゃん、という立場。

描写と類似と

画像がものごとを描写することについて、ひとがごく自然に言うことがあるとすれば、それは「画像は、画像が描写するものに似ている they resemble objects 」だろうと、Kulvicki(Kulvicki, J. 2014 Images, p. 52)は推測する。しかし、そのような考えは、アメリカの哲学者ネルソン・グッドマン(Nelson Goodman, 1906-1998)によって痛烈に批判されて以来、その批判をつうじて吟味されることが通例になっているとも述べる。Kulvickiはグッドマンによる批判を、次のようにまとめる。

 

類似は表象にはない特徴があるけれども、これが類似なる概念が表象を説明するに役に立たない理由である。類似はどこにでも在って、かつ、多岐にわたる。そして、反射的で、対称的である。表象はそのいずれをも欠く。それゆえ、なにかがなにかに似ていることは、(a) あるものを表象にするものを説明することも、(b) 表象を画像的にするものを説明することもありえない。(Ibid.)

Resemblances have features that representations lack, and this makes the former poor tools for explaining the latter. Resemblance is ubiquitous, multifarious, reflexive, and symmetric, while representation is none of these. So, the fact that something resembles something else cannot (a) explain what makes that thing representation or (b) explain what makes a representation pictorial.

 

「反射的」は、その語が示すように、あるものとその鏡像との関係を思えばいい。鏡のまえに太郎が立つとき、太郎とその鏡像とは最大限に似ている。たいして、「対称的」は、一卵性双生児を思えばいい。双子、太郎と郎太とは、互いに類似している。言いかえれば、太郎は郎太に似ているし、郎太も太郎に似ている。

このように、類似には反射性と対称性とが認められるけれども、表象(描写)にそのようなものは見当たらない。鏡像は太郎に最大限に似ているけれども、だからと言って、太郎を表象(描写)するわけではない。太郎は郎太に似ているし、郎太も太郎に似ているけれども、だからと言って、太郎は郎太を、郎太は太郎を表象(描写)するわけではない。ようするに、あるものとべつのものとに類似関係が成立していても、そこに表象(描写)関係が成立しているとは言えない。したがって、類似は表象(描写)を成立させるに十分でない*1

 

ついで、類似がどこにでも在って、かつ、多岐にわたるとは、「あらゆるものが互いに数限りない観点において似ている all objects resemble each other in indefinitely many respects 」(Ibid., p. 53)こと。たとえば、この画面に表示される文字「人間」は、存在するいかなる人間とも、黒色をしていることにおいて、似ている。もっと抽象化すれば、ある形状を有する点においても、似ている。類似など、際限なくどこにでも存在しうるわけで、したがって、こんなものが表象(描写)を成り立たせるなどとは、とても言えない。

 

ここで、たしかに、類似は表象を成立させるには不十分かもしれない。でも、言葉、図表など、表象がさまざまありうるなかで、ある表象が画像であるかどうかを決定する指標になるとは言えるんでないの?と考えたくなるが、Kulvickiによれば、これにも、グッドマンは懐疑的。たとえば、ある書物のあるページが、「頁の最後の七字」から始まり、かつ、終わるとする。始まりの言葉は、終わりの言葉を表象していて、かつ、それにこのうえなく類似してもいる。しかし、だからと言って、それはやはり言葉であって、画像ではない。

 

でも、直感はしつこいので、画像かどうかを決定する判断材料に使うことはまずくても、「やっぱ、画像はそれが表象する対象に似ているからこそ in virtue of 、それを表象する」(Ibid.)と言いたくなる。それは、文字にはないでしょ、と。けれども、これはすでに述べた理由から、認められない。そこで、類似はせめて、「ある画像が、あれではなく、これを表象する」ことを説明するものにはなるんじゃないと、言いたくなるが、これもグッドマンからすれば、認めがたい。なぜかと言えば、どんな二項間にも、際限なく多様な類似を見出せる以上、その観点が特定されねばならないが、グッドマンからすれば、それは描写を前提にして、はじめてなされうることだからである。つまり、ある画像は、言ってしまえば、あれにも、これにも似ているわけで、それがあれではなく、これに似ていることはただ、描かれているものが、これまでおおかたそのように(その観点から)描かれてきたということ、そして、それに我われが慣れ親しんできたということに過ぎないと、グッドマンは考えるからである。ここから、いわゆる写実性 realism について、極端な規約主義 conventionalism が主張されることになる。

 

以上が、Kulvickiによるまとめ。ほとんどそのまま書いてしまった。Kulvickiによれば、描写に類似を持ち込もうとするなら、少なくとも上記の議論は踏まえなければならない。

 

Kulvicki自身は「構造 structure 」概念を使いつつ、類似を自説にうまく取り込む。Kulvickiによれば、表象には「骨格内容 bare-bones content 」と「肉付内容 flesh out content 」とがある。たとえば、ある人物画について、それが徳川家康を描いたものであれば、徳川家康が肉付内容、その具体性を捨象したときに見出される、肉付内容を構成する色と線との布置が骨格内容。仮に、画像を写真に写せば、その骨格内容(構造)はそっくりそのまま写真にも現れる。Kulvickiはそれを、透明性 transparency なる概念にまとめる。そしてこの透明性と、グッドマン譲りのいくつかの概念を使って、画像が画像たる所以を説く。これによって、Kulvickiは、自説が他説に対して有する優位性を強調する。それなりにうまくいっているように見えるけれども、疑問はある。しかし、疲れたので、それはまた今度に。

 

*1:グッドマンはさらに、表象の本質を指示(記号機能) reference に見るため、類似は表象に必要ですらないとも述べるが、Kulvickiはそれについては、そこでは触れていない。必要ですらないと言うのは、たとえば、似ていなくたって、これは人間と決めてしまえば、色斑だってコップだってなんだって、人間を示す記号になりうるからである。実際、宗教画には、魚でキリストを示すなど、さまざまなシンボルが含まれるが、魚はキリストにまったく似ていない。にもかかわらず、キリストを表象する。無論、魚の図像がキリストを描写するには、魚の図像が魚であることがまず理解されねばならないけれども、グッドマンなら、それも指示から説明するか、そもそもそれは描写でないと言うにちがいない。描写でないとは、ここでは、個物同士にむずばれる関係ではないということで、グッドマンは、「ーの画像」と「ー画像」とを区別して、厳密に言えば、前者にのみ描写を考える(ただし、グッドマンは後者にも「表象」を当てるのでややこしい。cf. Goodman, N. (1976) Languages of Art.)。後者は、特定のジャンルに分類されるだけで、とくになにかを描写するわけではない、そのような画像である。たとえば、見た感じは鳥っぽいけど、どこかに実際にいる鳥を描いたわけではない画像とか、ユニコーンなど存在しない虚構物を描いた画像とかが、これに当たる。

雑感 231102

描写 depiction とは、あるものが画像的に pictorially なにものかを表す(表象する) represent ことを言う。簡単に、画像がなにものかを表すこと、あるいは、画像が画像であるかぎりにおいて有する表象機能のことであると言ってもいいかもしれない*1。画像はすでに我われの日常生活に溶け込んでいるけれども、本来極めて不思議なものであって、たとえば、この動画はそれをよく教えてくれる。

 

youtu.be

 

22秒あたりから、筆を持った画家らしきひとの影が現れ、筆を走らせていく。はじめはなにを書いているか分からないが、続けざまにそこにいくつも線が引かれ、あれよあれという間に、草木が現れ、その合間を勢いよく水が流れていく。もちろん、それらは画面のうえを走るたんなる光の明滅、すなわち、映像であって、草木でもなければ、水でもない。そんなことは百も承知で、しかし、我われは依然、そこにないはずの「草木」をそこにたしかに認め、「水」の勢いに目を奪われる。画家が走らせる筆によって描かれるものが、やがて生気を帯びて自ら動き出すように見せる演出は、画像が発揮する表象機能の不思議さを、鮮やかに示すものと言ってよい。

 

電子機器であれば実体のない光。カンヴァスないし紙であれば、顔料ないし染料。そこにあるものはそういったものでしかないはずであるのに、適切に按配され、配置されると、それとはまったくべつの、そこには本来ないはずのものへと、ほとんど魔術のごとく化ける。実際、何万年もまえに描かれた洞窟壁画などは、呪術とか祈祷とかいった宗教的、魔術的使用を想定して描かれたと言うひともあるくらいである。いったい画像がなにものかを表すことは、言いかえれば、あるものがあるものを描写することはいかにして可能なのか。(この問いを中心に、これまで哲学、美学、心理学といった学問に足をつっこんできた。)

 

描写の哲学」と呼ばれる分野がある。学者は主に言語を用いて、研究するからだろうか。あるいは、言語は、人間をほかの動物から区別する分かりやすい徴標だからだろうか。従来、言語は真面目な研究対象に数えられてきたけれども、画像は言語ほどには、つっこんで研究されてこなかった。けれども、画像だって、言語と同じようになにごとかを意味する。言語ならば、人間が自由に定めたルールにしたがって、なにごとかを意味すると割り切って考えることができるかもしれない(「お前は今からセンだ」)が、画像はもっと微妙に意味する。文字はどんなふうに書かれても、判別できさえすれば、同じことを意味するけれども、画像はそういうわけにはいかない。画面に定着すれば、どれほど小さな斑点といえども、意図せずして、ホクロなり、ゴマなりを意味してしまう。言いかえれば、記号と現実とが、言語に比べて、もっと濃いつながりで結ばれているように見える。そのことは、画像に注目すれば、「意味する」ことについてこれまでとはべつの仕方で知ることができるかもしれないと思わせるに十分である。くわえて、学者が言語しか使わないかと言えば、そうではない。学者はよく、思考を整理するためにものごとを図式化、図表化する。論文は言葉で書かれるから、言語ほどその存在が目立つことはないけれども、図式化、図表化することがあってこそ、知覚ほどには現実にベッタリとならずに、しかも、言語ほどには現実から遊離せずに、言いかえれば、現実から一歩身を引いて、しかし、現実に即して、学者たちはものごとを見ることができるわけであろう。そうであれば、画像も言語同様に、あるいはそれ以上に真面目に研究されていい。おそらく一部にはそういう理由から、「描写の哲学」は近年(というか、結構前から)注目されている。

 

例えば、スタンフォード大学が用意しているStanford Encyclopedia of philosophy (https://plato.stanford.edu/index.html)には、"Depiction" (https://plato.stanford.edu/entries/depiction/)の項目が独立して用意されているし、これまでに累積した議論を俯瞰して紹介する書物がもういくつも登場している。

 

勉強になるので、私自身もこの分野をよく覗くが、私自身の関心と重なるとこともあれば、ズレるところもあって、なかなか掴みづらい。「描写の哲学」が扱う問いってなに?と、ときどき迷子になる。

 

試しに、手元にある書物 John Kulvickiによる『イメージ Images』を見ると、こう書かれてある。(以下引用は  Kulvicki, John 2013 Images より)

 

 

 

 

This expansive sense of images casts them as one of perhaps two ways of representating. There are fairly arbitrary parings of names with things, exemplified in langauge, and there are representations that present likenesses, exemplifies by figurative pictures.

この広い意味でのイメージ[Kulvickiが言う「イメージ」]は、おそらくは二つある、ものごとを表象する方法のうちのいずれかに割り振られる。[第一に]言語に例示されるように、名前とものとのかなり恣意的な対応づけがある。そして[第二に]、具象画に例示されるように、類似を提示する表象がある。(Kulvicki, J. 2013 p. 3.)

 

Philosophers actually agree that there is some broad distinction at work here, but they disagree about to where to draw the line, and how importatnt it is. A finer quiestion animates most philosophical work in this area: what is pictorial representation? What distinguishes figurative paintings, photographs, and drawings from other kinds of representations?

哲学者たちは、ここになんらかのおおまかな区別が存在することには同意するが、その境界線をどこに引くべきか、また、それがどれほど重要であるかについては、意見を異にする。この分野におけるほとんどの哲学研究を駆り立てる問いを、よりはっきりとした形で提示すればこうなる。画像的表象とはなにか?具象画、写真、線描画を、ほかの種類の表象から区別するものはなにか?(Ibid., p. 4.)

 

Kulvickiによれば、描写をめぐる「ほとんどの哲学研究を駆り立てる問い」は、「具象画、写真、線描画を、ほかの種類の表象から区別するものはなにか」、あるいは、Kulvicki自身が示す典型例を考慮に入れれば、言葉と画像との違いってなにである。この書物の前半部では、自説も含め、この問いに答えるべく提出された議論が手際よく紹介される。ちなみに章立ては、以下のとおり。

 

一章 経験 experience 

二章 認知 recognition

三章 類似 resemblance

四章 ふり pretence

五章 構造 structure

六章 写実主義と非写実主義 realism and unrealism

七章 科学的イメージ scientific images 

八章 心のなかのイメージ images in mind

九章 写真と対象知覚 photography and object perception

 

一章から五章までが既説を紹介する部分、六章は描写の哲学でしばしば問題にされる写実性にかんする部分、七章〜九章までは、Kulvicki自身がコミットする構造説を援用しつつ、個別の議題が扱われている。

既説がどのようなものか、ごく大雑把にまとめれば、

・経験説は、画像は、特別な視覚的経験を与える点において、それ以外の表象とは異なると考える

・認知説は、画像は、視覚的な認知能力を活性化する点において、それ以外の表象とは異なると考える

・類似説は、画像は、それによって表されているものと視覚的な類似性を有する点において、それ以外の表象とは異なると考える

・フリ説は、ママゴトをするとき、我われがあるものをべつのものに見立てるように、画像は、視覚的想像力を喚起する小道具になる点において、それ以外の表象とは異なると考える

・構造説は、画像は、画像的記号が属する記号体系の、統語論的/意味論的特徴から、それ以外の表象とは異なると考える

 

経験説と認知説は似ているけれど、経験説では、意識的ないし現象学的なものに、認知説では心理学的な過程に、それぞれ焦点が当てられている。また、経験説は、日常経験との差異を強調するのに対して、認知説は、日常経験において作動する心理学的過程との連続性を強調する。ほかにも、類似説は、一番単純には、「言葉はそれが表すものに似てないけれど、画像はそれが表すものに似ているよね」と言うときの類似だが、実際にされている議論はもっとややこしい。乱暴に言ってしまえば、経験説、認知説、フリ説(、類似説)は、画像が鑑賞者に与える効果、とりわけ視覚性にかんする効果ゆえに、構造説は、効果から独立して、表象(記号)そのものが有する特徴ゆえに、画像はほかの表象から区別されると説く

 

上記したように、「描写の哲学」は、画像とそれ以外の表象との差異を明らかにするべく議論している、あるいは、それを見定めるために、画像に固有な表象のありかたを探求している("How do pictures, not non-pictures,  represent?")とまとめることができれば、分かりやすい。あ、自分が知りたいこととは少し違うことに取り組んでいると、安心して傍観できる。でも、そんなに簡単にまとめられないところがあって、上記した問いとは異なる問いが紛れ込んでいる気がする。それは、「(ほかならぬ)画像はいかに表象するか」ではなくて、「画像が表象することはそもそもいかにして可能か」である。この問いは、表象の画像性よりもむしろ表象性自体(記号性/志向性)、ないし、その可能性の根拠を問うものである。無論、画像はその画像性を通じてものごとを表象するわけで、両者は密接に結びついているには違いないが、ごっちゃにするとややこしい。

 

私からすれば、たとえば、『イメージ』における「類似」(そして、「写実性と非写実性」)は、「描写はほかの表象といかに異なるか」によりも、「そもそも描写なるものはいかにして可能か」に深く関係するように見える。ちょっと疲れたので、続きはまた今度書く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:まわりくどい言いかただが、画像には「像」だけでなく、「画(絵)」の要素も含まれる。

哲学はなにを扱うか What does philosophy deal with?

"Scuola di Atene" - Raffaello Santi 1509-1510

 

哲学の関心はいつも、我われが在る、存在する、その、このうえなく不可思議な事実に注がれる。それが不可思議だと言う理由は、我われはけっして、特殊科学が扱うもののようには、完全には対象化されえないからである。我われ自身は、それ以外のもののように、我われのまえに、ポンっと、その全体を一挙に置いてみせることはできない。なるほど、心理学は我われ自身を、魂とか心とかいった概念のもとになんとか捉えようとしてきた。人類学も社会学も、ほかならぬ、我われ自身であるところの人間が主題である。けれども、そうした、あからさまに我われ自身を主題に据える学問でさえ、我われ自身を対象にする、まさにその最中に、その背後で生き生きと活動、存在する我われ自身のことは、すっかり置き去りにしてしまう。

無論、特殊科学がしかける網をするりとすり抜けてしまうからと言って、我われ自身を見過ごすわけにはいくまい。我われ自身ほど、我われにとって大事なものはないからである。特殊科学も、あるいは、なにもかも、我われ自身が存在しなければ、まったく無用である。だから、特殊科学が扱えぬ、しかし、それでいて、けっして蔑ろにすることはできない我われ自身を扱う学問が、どうしても必要とされる。それが哲学である。哲学の課題ないし目的は古来、自己自身を認識することであって、かのソクラテスを駆動したあの箴言、「汝自身を知れ」は哲学の根幹にある。

 

Philosophy has always been drawn to the most enigmatic fact of our existence – that we exist. This enigma persists because we can never entirely objectify ourselves in the same manner as the subjects of specialized sciences. In other words, we cannot place our entirety before ourselves in the way we can with other things.

It might be tempting to consider that psychology as the science emerged to grasp the essence of "ourselves" through concepts such as the soul or mind. Similarly, not only psychology but also anthropology, sociology, and even biology seemingly revolve around the study of human beings. However, these disciplines, despite their focus on us, inadvertently fail to fully capture the vibrant, living selves that act and exist in the very moments of these inquiries.

Our selves cannot be simply encompassed by the nets cast by specialized sciences. Nothing outweighs the importance of understanding ourselves. Indeed, all these sciences, or rather everything, would lose its significance without our existence. This is precisely why philosophy, the discipline capable of addressing what escapes other sciences and demands attention, id est, human "being," is indispensable.

The essence and enduring goal of philosophy is to comprehend ourselves. The famous quote "know thyself," which drove Socrates, lies at the core of philosophy's essence.