eyotozmの日記

技術は死なぬために、芸術は生きるために。

雑感 231112

実在論 realism は、観念論 idealism に対比される哲学上の立場で、大まかかに言えば、言明「実在が存在する there are real things 」にコミットする立場、あるいは、それを原理としつつ、さらなる言明にコミットしたり、物事に対処したりする立場(言明「我われは実在を認識しうる」にコミットするなど)である。

実在 reality は、遡ればラテン語「もの res 」(realitas: noun/ realis: adj.)に由来する概念で、ものの「もの性」、すなわち、そのものに属する本性 nature ないし本質 essence (≒事象内容)を意味するが、そのようなものは現実存在 real existence を有するはずで、したがって、その存在を思考に依存しない independent of thought *1。思考に依存しないとは、我われ人間が発揮する思考活動に依存しないことであって、思考活動を狭義にとれば、判断を含む概念活動がその好例である。

科学を考えるとよいかもしれない。我われが実際に知覚してその存在を確かめることのできないものを、科学者たちはしばしば、現象を説明する理論に含める。直接に知覚できるものにかんして、その存在を疑うひとは普通いない。知覚されるものが確かに存在すること、それは論証せずともすでに明らか evident である。けれども、直接に知覚しえないものについて、ある現象をうまく説明してくれるというだけで、存在すると言ってしまっていいものか。あるひとは、いいと言い、あるひとはそうでないと主張する。そうでないと言うひとは、これまでの科学史を振り返って、のちに偽であると証明された仮説、理論上仮定された対象があることを引いて、それを例証するか、あるいは、そうして人間がしばしば判断を誤ることを思考活動一般に敷衍して、人間が発揮する概念能力がいかに頼りないものであるかを示しつつ、概念作用が及ぶ範囲でさえままならぬのに、それが及ばぬところで物事がどうなっているかなど、人間には知りようがない、したがって、そんなものが在るとか無いとか言うことは無意味であると、言うかもしれない*2。いずれにせよ、このときには、科学で用いられるさまざまな概念は現象を説明してくれる有用なものであるとは主張されても、実在を明らかにするものであるとまでは主張されない。

科学だと、日常から少し離れたところで議論されることが多いので、ピンとこないかもしれないが、デカルトRené Descartes, 1596-1650)によって、人間が人間たる所以は、身体から分離した精神であると説かれて以来、思考活動には、感覚すること、知覚すること、想像することなど、およそ人間がなしうる認知活動がすべて含まれることになった。自分はいま夢を見ていて、いまそこにあると思っているものは実は存在してないかもしれないとか、この世界は映画『マトリックス』が描いたように、その実体はまったく別物かもしれないとか。そういうSFじみた思考実験は、これに由来する。こうなると、思考活動に依存しないとは、人間が人間たる所以であるとデカルトが考えるところの精神全体に依存しないとなって、概念活動だけにとどまらない。感覚する、知覚する、想像するなど、あらゆる認知活動に依存しない、となる。

ややこしいことに、そうなると、精神とそうでないものとが対比され、あらゆるものは精神に依存するわけだから、その存在性が希薄にされる。それまで世界には、自らにその活動原理ないし本性を宿した、したがって、ほかに依存せずに、自分自身で存在しうるさまざまな実体 subject が存在すると考えられた*3のに、すべてが精神に依存するとなれば、それらから実体性は剥奪され、ただ精神にたいしてのみ存在するものになる。かくして、精神は卓越した実体、すなわち、主観 subject と呼ばれ、反対に、精神でないものが、ただ主観にたいしてのみ存在するものに対象化 objectified される。精神でないものは、デカルトにおいては物体であるから、物体に対象が重ね合わされ、さらに、物体=物質的事物は実在の顕著な例であるから、実在がさらにそこに重ね合わされる。実在論がときに、客観主義 objectivism とも唯物論 materialism とも混同されがちな理由には、このような経緯があると考えられるが、客観=対象概念は主観を前提にするので*4、それを実在論に交えると途方もなく議論がややこしくなるし、実在論唯物論のように、物質的なものだけが存在することを説くわけではない*5

込み入った事情はあれど、実在論がどういう立場かはだいたい分かってもらえたと考えて、話を進めたい。問題にしたいことは、実在論なるものをどうしてわざわざ必要としなくてはならないか、である。

第一には、反対するひとがいて、その主張が間違っていると考えるからである。虚偽を容認することは、精神を病ますことである。反対するひとは、観念論とか、主観主義とかいった立場にあるひとである。しかし、観念論とか、主観主義でなにがいけないのか、となると、いろいろ難しい。「たとえこの世界が夢の如く儚いもので、実体に欠けたものであっても、みんなが同じ夢を見てるなら、それでいいではないか。大切なことは、物事に真実があると盲信することでなくて、なにが真実であれ、互いに連帯することではなかろうか(赤信号みんなで渡れば怖くない)。」とか、「科学が解き明かすことが真実でなくたって、それは少なくとも我われの役に立っているわけで、それ以上なにを求めるべきだろうか。検証して確かめることのできないと初めからわかっているものに対して、あれこれ議論することなど、不毛だし、むしろ、なされるべき議論を妨げるという意味で有害でさえある。」とか、そういった意見もある。無論、哲学者たちはそうした主張に潜む飛躍ないし間隙、欠陥を逐一指摘して、それを論駁するわけだが、実在論が客観主義、唯物論と混同されがちなこともあって、なんだかよく分からない。

実在論にコミットせねばならない理由があるとすれば、そうしなければ、理論と実践との乖離、言いかえれば、我われが認識する世界と、我われが生きて行為する世界との乖離(自然と自由との乖離)を避けがたく帰結するからではないかと思われる。

たしかになにも実在しないとなれば、困る。しかし、それが困る理由は、たとえば、科学と哲学とでは異なる。科学は世界を探求する。対して、哲学は世界に生きる自己をこそ探求する。科学が問題にする実在は、世界ないし世界に存在するものの実在である。対して、哲学が問題にする実在は、そこに生き、住まう自己の実在である。我われ人間は自己を直観できない。自分自身を見るために我われは鏡を利用するしかなかったり、他人から教えてもらうほかなかったりするように、我われは、世界を認識することにおいて発揮される自らの働きを反省することで、すなわち、認識される世界からの照り返しによって自己を認識するほかない。ようするに、同じ世界を認識するにしても、科学と哲学とでは目的がことなるわけだ*6

デカルトは自己を直観したつもりでいたけれども、デカルトが見出した自己は、アリストテレス以来の目的論的自然から脱却するべく任意に設定された、きわめて恣意性の高い自己であって、その結果、世界は見失われ、自己も見失われた。デカルトがそうしたように、世界に存在する物体は、数量化される側面しかもっていないと考えることは自由である。けれども、現実には、事物は数量化されえない側面も持っているわけで、そのように数量化されうる側面しか有さないもの、すなわち、物体しか存在しない世界に、我われが位置する余地などもとからありえない。

無論それは、デカルトが考える科学からすれば、そう見なさざるをえないというだけであって、女王エリザベトとの書簡において、デカルトは、日常を生きる我われにとって、我われが世界に生きることは自明であるとも述べている。すなわち、科学にあって、精神は身体から分離され、したがって、物体世界に属さない*7と見なさなければならないけれども、日常にあって、我われがそのように考えねばならぬ道理はない、そこで我われは心身合一をたしかに生きると、デカルトは述べる。

心身分離と心身合一をともに説くデカルトは、いかにも矛盾しているように見えるが、これは矛盾ではない。それはそれ、あれはあれと切り分ければ問題ない、少なくともデカルトはそう考える。それらはいずれも物事を進めるうえで始原に置かれる原理であって、科学的思考にあって我われは心身分離にコミットし、日常的思考にあって我われは心身合一にコミットすればいいというわけである。これはようするに、理論と実践とを分けて考えよ、と言うことであって、さらに言えば、我われがどう生きるかは科学を束縛しないし、科学もまた我われがどう生きるかを束縛しないということでもある。言うまでもなくこれはのちに、カント(Immanuel Kant, 1724-1804)に引き継がれ、事実と価値との分離、科学と倫理との分離…、などにおいて現代にまで続く*8

哲学において、なにごとかを認識することは、知識を獲得することによりも、知恵 wisdom/sophia を獲得することに関係する。我われがいかに生きるべきかを認識する認識(哲学)は無論、我われが生きる世界はいかなるありかたをしているかを認識する認識(科学)と、歩みを共にせねばならない。実在論への疑いは、両者のすれ違いから生まれたものであって、この結びつきを回復しなければ、統一した世界像を獲得することは望めない。相対主義 relativism 、主意主義 voluntarism など、現代に見られるさまざまな立場は、究極には、ここに由来するように見える。なにが言いたいか、分からなくなってきたが、疲れたので、続きはまた今度。

*1:無論、事象内容も事象 res に属するかぎり、思考に依存しないはずだが、カントのように経験論と超越論とを分ける立場からすれば、結局思考に依存するので、ややこしい。

*2:現代において、実在論にコミットしないひとたちの多くはおそらく、こういった立場にコミットする。すなわち、存在論なしでもべつに支障なし、という立場である。たとえば、アメリカの哲学者グッドマン(Nelson Goodman, 1906-1998)はそうである。俗に言う「存在論的コミットメント」も、古来言われるいわゆる存在論というより、ある理論がいかなる存在者の存在を前提にするかであって、むしろ対象論と言ったほうがわかりやすい。理論なしに、その対象があるかどうかは問題にされない。それを問うとき、我われは無意味なことをしていると、たとえば、カルナップ(Rudolf Carnup 1891-1970)なら言うはずである。

*3:ほかに依存して存在するものは、例えば、色である。赤色の赤さは、それ自体では存在しない。色は常に、それ自体で存在する、なにかしらのもの=実体の色である。絵具の赤も、赤さそれ自体ではなくて、画材が有する赤さである。

*4:主観と客観/対象とは、相関概念である。

*5:唯物論に似たものに、物理主義 physicalism があるけれども、同じだと見なすひともあれば、違うと見なすひともある。

*6:いわゆる自然主義者たちは、哲学が古来抱えるこの目的を知らないように見える。結果、彼らにとって哲学はメタ科学になる。そしてそこから得られた結論を一般化すれば、形而上学になる。しかし、根本的なところがズレているように見える。

*7:したがって、逆に言えば、科学は世界の数量化されうる側面だけを追求するべきであると、言われる。

*8:そして、カントの超越論的観念論=経験論的実在論はかなり手ごわい。たんなる観念論とはちがって、実在を否定する立場に立たない。先の注で書いたように、むしろ、現代で言えば、グッドマンなどのように、超越論的な実在にはタッチしない、という立場である。そんなの考えなくたって、科学はできるし、哲学もできるじゃん、という立場。