eyotozmの日記

技術は死なぬために、芸術は生きるために。

描写と類似と

画像がものごとを描写することについて、ひとがごく自然に言うことがあるとすれば、それは「画像は、画像が描写するものに似ている they resemble objects 」だろうと、Kulvicki(Kulvicki, J. 2014 Images, p. 52)は推測する。しかし、そのような考えは、アメリカの哲学者ネルソン・グッドマン(Nelson Goodman, 1906-1998)によって痛烈に批判されて以来、その批判をつうじて吟味されることが通例になっているとも述べる。Kulvickiはグッドマンによる批判を、次のようにまとめる。

 

類似は表象にはない特徴があるけれども、これが類似なる概念が表象を説明するに役に立たない理由である。類似はどこにでも在って、かつ、多岐にわたる。そして、反射的で、対称的である。表象はそのいずれをも欠く。それゆえ、なにかがなにかに似ていることは、(a) あるものを表象にするものを説明することも、(b) 表象を画像的にするものを説明することもありえない。(Ibid.)

Resemblances have features that representations lack, and this makes the former poor tools for explaining the latter. Resemblance is ubiquitous, multifarious, reflexive, and symmetric, while representation is none of these. So, the fact that something resembles something else cannot (a) explain what makes that thing representation or (b) explain what makes a representation pictorial.

 

「反射的」は、その語が示すように、あるものとその鏡像との関係を思えばいい。鏡のまえに太郎が立つとき、太郎とその鏡像とは最大限に似ている。たいして、「対称的」は、一卵性双生児を思えばいい。双子、太郎と郎太とは、互いに類似している。言いかえれば、太郎は郎太に似ているし、郎太も太郎に似ている。

このように、類似には反射性と対称性とが認められるけれども、表象(描写)にそのようなものは見当たらない。鏡像は太郎に最大限に似ているけれども、だからと言って、太郎を表象(描写)するわけではない。太郎は郎太に似ているし、郎太も太郎に似ているけれども、だからと言って、太郎は郎太を、郎太は太郎を表象(描写)するわけではない。ようするに、あるものとべつのものとに類似関係が成立していても、そこに表象(描写)関係が成立しているとは言えない。したがって、類似は表象(描写)を成立させるに十分でない*1

 

ついで、類似がどこにでも在って、かつ、多岐にわたるとは、「あらゆるものが互いに数限りない観点において似ている all objects resemble each other in indefinitely many respects 」(Ibid., p. 53)こと。たとえば、この画面に表示される文字「人間」は、存在するいかなる人間とも、黒色をしていることにおいて、似ている。もっと抽象化すれば、ある形状を有する点においても、似ている。類似など、際限なくどこにでも存在しうるわけで、したがって、こんなものが表象(描写)を成り立たせるなどとは、とても言えない。

 

ここで、たしかに、類似は表象を成立させるには不十分かもしれない。でも、言葉、図表など、表象がさまざまありうるなかで、ある表象が画像であるかどうかを決定する指標になるとは言えるんでないの?と考えたくなるが、Kulvickiによれば、これにも、グッドマンは懐疑的。たとえば、ある書物のあるページが、「頁の最後の七字」から始まり、かつ、終わるとする。始まりの言葉は、終わりの言葉を表象していて、かつ、それにこのうえなく類似してもいる。しかし、だからと言って、それはやはり言葉であって、画像ではない。

 

でも、直感はしつこいので、画像かどうかを決定する判断材料に使うことはまずくても、「やっぱ、画像はそれが表象する対象に似ているからこそ in virtue of 、それを表象する」(Ibid.)と言いたくなる。それは、文字にはないでしょ、と。けれども、これはすでに述べた理由から、認められない。そこで、類似はせめて、「ある画像が、あれではなく、これを表象する」ことを説明するものにはなるんじゃないと、言いたくなるが、これもグッドマンからすれば、認めがたい。なぜかと言えば、どんな二項間にも、際限なく多様な類似を見出せる以上、その観点が特定されねばならないが、グッドマンからすれば、それは描写を前提にして、はじめてなされうることだからである。つまり、ある画像は、言ってしまえば、あれにも、これにも似ているわけで、それがあれではなく、これに似ていることはただ、描かれているものが、これまでおおかたそのように(その観点から)描かれてきたということ、そして、それに我われが慣れ親しんできたということに過ぎないと、グッドマンは考えるからである。ここから、いわゆる写実性 realism について、極端な規約主義 conventionalism が主張されることになる。

 

以上が、Kulvickiによるまとめ。ほとんどそのまま書いてしまった。Kulvickiによれば、描写に類似を持ち込もうとするなら、少なくとも上記の議論は踏まえなければならない。

 

Kulvicki自身は「構造 structure 」概念を使いつつ、類似を自説にうまく取り込む。Kulvickiによれば、表象には「骨格内容 bare-bones content 」と「肉付内容 flesh out content 」とがある。たとえば、ある人物画について、それが徳川家康を描いたものであれば、徳川家康が肉付内容、その具体性を捨象したときに見出される、肉付内容を構成する色と線との布置が骨格内容。仮に、画像を写真に写せば、その骨格内容(構造)はそっくりそのまま写真にも現れる。Kulvickiはそれを、透明性 transparency なる概念にまとめる。そしてこの透明性と、グッドマン譲りのいくつかの概念を使って、画像が画像たる所以を説く。これによって、Kulvickiは、自説が他説に対して有する優位性を強調する。それなりにうまくいっているように見えるけれども、疑問はある。しかし、疲れたので、それはまた今度に。

 

*1:グッドマンはさらに、表象の本質を指示(記号機能) reference に見るため、類似は表象に必要ですらないとも述べるが、Kulvickiはそれについては、そこでは触れていない。必要ですらないと言うのは、たとえば、似ていなくたって、これは人間と決めてしまえば、色斑だってコップだってなんだって、人間を示す記号になりうるからである。実際、宗教画には、魚でキリストを示すなど、さまざまなシンボルが含まれるが、魚はキリストにまったく似ていない。にもかかわらず、キリストを表象する。無論、魚の図像がキリストを描写するには、魚の図像が魚であることがまず理解されねばならないけれども、グッドマンなら、それも指示から説明するか、そもそもそれは描写でないと言うにちがいない。描写でないとは、ここでは、個物同士にむずばれる関係ではないということで、グッドマンは、「ーの画像」と「ー画像」とを区別して、厳密に言えば、前者にのみ描写を考える(ただし、グッドマンは後者にも「表象」を当てるのでややこしい。cf. Goodman, N. (1976) Languages of Art.)。後者は、特定のジャンルに分類されるだけで、とくになにかを描写するわけではない、そのような画像である。たとえば、見た感じは鳥っぽいけど、どこかに実際にいる鳥を描いたわけではない画像とか、ユニコーンなど存在しない虚構物を描いた画像とかが、これに当たる。