eyotozmの日記

技術は死なぬために、芸術は生きるために。

雑感 231102

描写 depiction とは、あるものが画像的に pictorially なにものかを表す(表象する) represent ことを言う。簡単に、画像がなにものかを表すこと、あるいは、画像が画像であるかぎりにおいて有する表象機能のことであると言ってもいいかもしれない*1。画像はすでに我われの日常生活に溶け込んでいるけれども、本来極めて不思議なものであって、たとえば、この動画はそれをよく教えてくれる。

 

youtu.be

 

22秒あたりから、筆を持った画家らしきひとの影が現れ、筆を走らせていく。はじめはなにを書いているか分からないが、続けざまにそこにいくつも線が引かれ、あれよあれという間に、草木が現れ、その合間を勢いよく水が流れていく。もちろん、それらは画面のうえを走るたんなる光の明滅、すなわち、映像であって、草木でもなければ、水でもない。そんなことは百も承知で、しかし、我われは依然、そこにないはずの「草木」をそこにたしかに認め、「水」の勢いに目を奪われる。画家が走らせる筆によって描かれるものが、やがて生気を帯びて自ら動き出すように見せる演出は、画像が発揮する表象機能の不思議さを、鮮やかに示すものと言ってよい。

 

電子機器であれば実体のない光。カンヴァスないし紙であれば、顔料ないし染料。そこにあるものはそういったものでしかないはずであるのに、適切に按配され、配置されると、それとはまったくべつの、そこには本来ないはずのものへと、ほとんど魔術のごとく化ける。実際、何万年もまえに描かれた洞窟壁画などは、呪術とか祈祷とかいった宗教的、魔術的使用を想定して描かれたと言うひともあるくらいである。いったい画像がなにものかを表すことは、言いかえれば、あるものがあるものを描写することはいかにして可能なのか。(この問いを中心に、これまで哲学、美学、心理学といった学問に足をつっこんできた。)

 

描写の哲学」と呼ばれる分野がある。学者は主に言語を用いて、研究するからだろうか。あるいは、言語は、人間をほかの動物から区別する分かりやすい徴標だからだろうか。従来、言語は真面目な研究対象に数えられてきたけれども、画像は言語ほどには、つっこんで研究されてこなかった。けれども、画像だって、言語と同じようになにごとかを意味する。言語ならば、人間が自由に定めたルールにしたがって、なにごとかを意味すると割り切って考えることができるかもしれない(「お前は今からセンだ」)が、画像はもっと微妙に意味する。文字はどんなふうに書かれても、判別できさえすれば、同じことを意味するけれども、画像はそういうわけにはいかない。画面に定着すれば、どれほど小さな斑点といえども、意図せずして、ホクロなり、ゴマなりを意味してしまう。言いかえれば、記号と現実とが、言語に比べて、もっと濃いつながりで結ばれているように見える。そのことは、画像に注目すれば、「意味する」ことについてこれまでとはべつの仕方で知ることができるかもしれないと思わせるに十分である。くわえて、学者が言語しか使わないかと言えば、そうではない。学者はよく、思考を整理するためにものごとを図式化、図表化する。論文は言葉で書かれるから、言語ほどその存在が目立つことはないけれども、図式化、図表化することがあってこそ、知覚ほどには現実にベッタリとならずに、しかも、言語ほどには現実から遊離せずに、言いかえれば、現実から一歩身を引いて、しかし、現実に即して、学者たちはものごとを見ることができるわけであろう。そうであれば、画像も言語同様に、あるいはそれ以上に真面目に研究されていい。おそらく一部にはそういう理由から、「描写の哲学」は近年(というか、結構前から)注目されている。

 

例えば、スタンフォード大学が用意しているStanford Encyclopedia of philosophy (https://plato.stanford.edu/index.html)には、"Depiction" (https://plato.stanford.edu/entries/depiction/)の項目が独立して用意されているし、これまでに累積した議論を俯瞰して紹介する書物がもういくつも登場している。

 

勉強になるので、私自身もこの分野をよく覗くが、私自身の関心と重なるとこともあれば、ズレるところもあって、なかなか掴みづらい。「描写の哲学」が扱う問いってなに?と、ときどき迷子になる。

 

試しに、手元にある書物 John Kulvickiによる『イメージ Images』を見ると、こう書かれてある。(以下引用は  Kulvicki, John 2013 Images より)

 

 

 

 

This expansive sense of images casts them as one of perhaps two ways of representating. There are fairly arbitrary parings of names with things, exemplified in langauge, and there are representations that present likenesses, exemplifies by figurative pictures.

この広い意味でのイメージ[Kulvickiが言う「イメージ」]は、おそらくは二つある、ものごとを表象する方法のうちのいずれかに割り振られる。[第一に]言語に例示されるように、名前とものとのかなり恣意的な対応づけがある。そして[第二に]、具象画に例示されるように、類似を提示する表象がある。(Kulvicki, J. 2013 p. 3.)

 

Philosophers actually agree that there is some broad distinction at work here, but they disagree about to where to draw the line, and how importatnt it is. A finer quiestion animates most philosophical work in this area: what is pictorial representation? What distinguishes figurative paintings, photographs, and drawings from other kinds of representations?

哲学者たちは、ここになんらかのおおまかな区別が存在することには同意するが、その境界線をどこに引くべきか、また、それがどれほど重要であるかについては、意見を異にする。この分野におけるほとんどの哲学研究を駆り立てる問いを、よりはっきりとした形で提示すればこうなる。画像的表象とはなにか?具象画、写真、線描画を、ほかの種類の表象から区別するものはなにか?(Ibid., p. 4.)

 

Kulvickiによれば、描写をめぐる「ほとんどの哲学研究を駆り立てる問い」は、「具象画、写真、線描画を、ほかの種類の表象から区別するものはなにか」、あるいは、Kulvicki自身が示す典型例を考慮に入れれば、言葉と画像との違いってなにである。この書物の前半部では、自説も含め、この問いに答えるべく提出された議論が手際よく紹介される。ちなみに章立ては、以下のとおり。

 

一章 経験 experience 

二章 認知 recognition

三章 類似 resemblance

四章 ふり pretence

五章 構造 structure

六章 写実主義と非写実主義 realism and unrealism

七章 科学的イメージ scientific images 

八章 心のなかのイメージ images in mind

九章 写真と対象知覚 photography and object perception

 

一章から五章までが既説を紹介する部分、六章は描写の哲学でしばしば問題にされる写実性にかんする部分、七章〜九章までは、Kulvicki自身がコミットする構造説を援用しつつ、個別の議題が扱われている。

既説がどのようなものか、ごく大雑把にまとめれば、

・経験説は、画像は、特別な視覚的経験を与える点において、それ以外の表象とは異なると考える

・認知説は、画像は、視覚的な認知能力を活性化する点において、それ以外の表象とは異なると考える

・類似説は、画像は、それによって表されているものと視覚的な類似性を有する点において、それ以外の表象とは異なると考える

・フリ説は、ママゴトをするとき、我われがあるものをべつのものに見立てるように、画像は、視覚的想像力を喚起する小道具になる点において、それ以外の表象とは異なると考える

・構造説は、画像は、画像的記号が属する記号体系の、統語論的/意味論的特徴から、それ以外の表象とは異なると考える

 

経験説と認知説は似ているけれど、経験説では、意識的ないし現象学的なものに、認知説では心理学的な過程に、それぞれ焦点が当てられている。また、経験説は、日常経験との差異を強調するのに対して、認知説は、日常経験において作動する心理学的過程との連続性を強調する。ほかにも、類似説は、一番単純には、「言葉はそれが表すものに似てないけれど、画像はそれが表すものに似ているよね」と言うときの類似だが、実際にされている議論はもっとややこしい。乱暴に言ってしまえば、経験説、認知説、フリ説(、類似説)は、画像が鑑賞者に与える効果、とりわけ視覚性にかんする効果ゆえに、構造説は、効果から独立して、表象(記号)そのものが有する特徴ゆえに、画像はほかの表象から区別されると説く

 

上記したように、「描写の哲学」は、画像とそれ以外の表象との差異を明らかにするべく議論している、あるいは、それを見定めるために、画像に固有な表象のありかたを探求している("How do pictures, not non-pictures,  represent?")とまとめることができれば、分かりやすい。あ、自分が知りたいこととは少し違うことに取り組んでいると、安心して傍観できる。でも、そんなに簡単にまとめられないところがあって、上記した問いとは異なる問いが紛れ込んでいる気がする。それは、「(ほかならぬ)画像はいかに表象するか」ではなくて、「画像が表象することはそもそもいかにして可能か」である。この問いは、表象の画像性よりもむしろ表象性自体(記号性/志向性)、ないし、その可能性の根拠を問うものである。無論、画像はその画像性を通じてものごとを表象するわけで、両者は密接に結びついているには違いないが、ごっちゃにするとややこしい。

 

私からすれば、たとえば、『イメージ』における「類似」(そして、「写実性と非写実性」)は、「描写はほかの表象といかに異なるか」によりも、「そもそも描写なるものはいかにして可能か」に深く関係するように見える。ちょっと疲れたので、続きはまた今度書く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:まわりくどい言いかただが、画像には「像」だけでなく、「画(絵)」の要素も含まれる。